パピプルカラーへようこそ。
このブログは絵が好きな人や、絵を描いて画家活動をしていきたい人に向けて、絵の描き方や画材、絵の上達方法や活動のノウハウ、悩みの解決方法などについて書いています。
初めての方はまずは下の記事から読んでいただくのがオススメです。
私はミラ、絵描きです
子供の頃から絵が大好きでした。
画廊で働く機会に恵まれ前向きに努力を続けていますと、一度は諦めた絵の道の師匠になってくれる人が現れました。
普通の絵画教室とはまるで様子が違いましたがその先生のもとで絵を描き続け、公募展の人気投票で1位をいただいたり、画材メーカー(カワチ)さんから賞を戴くなど絵も上達してきました。
右も左もわからないまま自分で営業活動もはじめ、大手企業の読者プレゼントとしてペットの肖像画を起用していただいたり、ギフト商品を扱うECサイトで肖像似顔絵を扱っていただくようになりました。
師匠と一緒にレストランの宴会場など壁画制作もさせていただきました。
長く画廊に勤めた経験から、百貨店などで展覧会などのイベントをしている会社から委託され、作家さんスカウトの仕事をしたり、会社のロゴマークの制作やホームページ制作のお手伝いもするなど、絵描きという枠にこだわらず面白いと思ったことやお役に立てることを意欲的にしています。
今は企業さんを通して注文をいただいたら肖像似顔絵を描き、個人的なご依頼も受け、師匠と一緒に吉祥画を描いてショップを運営しながら別の作風にもいろいろ挑戦して楽しく絵を描いています。
このような活動が出来るようになるまで、実際はとても長い時間がかかりました。
大きなストレスがいくつも重なり体を壊し高校では不登校(五月雨登校)になり、せっかく入った美大にも通うことが出来なくなって中退し、乗り物に乗ることや外食、外出全般が困難になったり、ものが食べられなくなって液体の栄養剤だけで生きていた時期もありました。
絵描きさんになりたかった
子供の頃から体が弱かった私は、小学1年生の時に入院しました。
退屈なベッドの上でひとり、好きなマンガを模写して過ごしていました。
ダメ
…10円でいいから売ってきて
ダメ
カン違いしていた7歳の私には、なんでアカンのかちっともわかりませんでしたが、絵を描くことは面白かったです。
近所の集会所では月曜日になると絵画教室があることを私は知っていて、いつも窓ガラスにベッタリとはりついて絵を描いている人たちの様子を見ていたので、絵画教室の先生が中へ入れて絵を描かせてくれたこともありました。
絵、習いたい
ダメ
ピアノより絵が習いたい
ダメ
習い事はピアノとお習字に通っていました。
なんでアカンの~
ピアノを買ってしまっているからという大人の事情などつゆ知らず、また月曜日になるたび妖怪のように窓ガラスにビタッとくっついていた私を見かねた絵画教室のM先生が「絵を習いたいみたいなんです」と母に話してくださって、ようやく絵画教室に通えるようになりました。
楽しくて楽しくて一番チビだった私はいつも一番乗りで教室へ行き、みんなが帰って最後に先生と一緒に教室の鍵を閉めるまで、ずっと絵を描いていました。
そんな夢のように楽しい日々はわずか2・3年。
絵画教室の閉鎖により、あっけなく終わってしまいました。
絵を描くことは悪
私もまたマンガやアニメが好きで、月に一度アニメイトに行くのを楽しみにするような中学生でした。
今のようにマンガやアニメなどを日本の誇る文化と認識していなかった私の親は、私がマンガを読んだり絵を描くことに良い顔をしませんでした。
「絵を描くなら○○して」「また絵描いてる」しだいに私が絵を描くことは何か悪いことをしているかのように非難されるようになり、大切にしていたスケッチブックをメモ用紙に使われたり、描いている絵を目の前で破られてしまうこともありました。
そのころから色々なストレスが増え、体の調子がおかしくなっていきました。
慢性化していた頻脈性不整脈のせいか、一時的に右目が見えなくなったこともありました。
坂道を転がり落ちるように物事がうまくいかなくなり、這い上がるまでは地獄のような苦しい時間が延々と続きました。
その頃のことはこの記事に詳しく書いています。
絵を描くことを否定されていたのになぜ美大へ行かせてもらえたのか、ずっと後になってから聞いたのは、私の実印を作るとき当たるも八卦当たらぬも八卦の四柱推命でみてもらい「この子は芸術の学校に行かせてあげてください」と言われていたからだそうです。
「この人は体が弱いですね」など当てはまるようなことも言われたらしく、私が美大に行きたいと言ったとき反対しなかったそうです。
真贋はさておき、このことは印鑑屋さんと両親に感謝しています。
けれども、美大に通っていた前後が人生で一番心身を壊していた時期だったこともあり、結局は学びたい気持ちを残したまま中退という道をたどりました。
生きるために描く
学校もやめてしまい何もかもうまくいかず生きていたくなかったけれど、生きることを途中でやめるのはなんか違うと思っていたので、大学をやめてからも絵は描き続けていました。
モチベーションの為に目標を作ろうと思い、マンガを描いて出版社に送ることにしたのです。
マンガというのはプロアマを問わず描いたことがある方はよくご存じと思いますが、いくつもの技術が集結した総合芸術です。
私は漫画家にはなれませんでしたが、デッサンや遠近法、構図やグレースケールでの配色など、絵画の基礎の多くをマンガを描くことで学ぶことが出来ました。
マンガを描いている間も体のつらさや生きていたくない気持ちが消えることはありませんでしたが、原稿や資料などが散らばった踏み場のない部屋でマンガを完成させ、郵便局に出してきた直後のほんの2時間くらいの間だけは、この世の全てから解放されたような気持ちになりました。
画廊時代
少しずつ外に出られるようになった頃マンガを描くことをやめ、短期バイトから徐々に社会復帰し、その後画廊で働くことになりました。
画廊というのは一見綺麗な仕事のようですが、実際は展示設営などの体力仕事でもあり大変なことも沢山ありましたが、ここで国内外のプロの画家さんたちの展示企画運営に携わり、多くの作品や画家さん、お客様と出会い関わらせていただけました。
このブログでは絵画の販売や額装についての記事も色々書いていますが、それはこの画廊の仕事でのリアルな経験から実感したことや、自分なりに学びとったことをもとに書いています。
師匠との出会い
ときどきですが、私は未来のキーパーソンに出会う前に不思議と気が付くことがあります。
それは具体的な人物像がイメージとして浮かんでいることもあれば、人の名字がなぜか頭から離れないでいたらその名字の人に出会うといった具合です。
そのときも先生になる人に出会うということを感じて知っていたので、今の絵の師匠に会ったときすぐに「この人はわたしの先生だ」と気が付いたのですが、あちらは全く気が付いていなくて「先生のはずなんやけどな…おかしいな」としばらくは思っていました。
矛盾するようですが、はじめて色々先生とお話しをさせてもらったとき、私は今のような画家活動をするとは思っていませんでした。
このまま絵は一生趣味で描いていくのかなと思っていて…
でもこのままだと、いつか死ぬときに後悔するんじゃないかと思って…
それは後悔するやろな
うぉん…
応援するから頑張り
「応援するから頑張り」という言葉は私だけにかけられた言葉でなく、先生の元にはいろんなクリエイターが集まってきては事務所の一角を借りて勉強しながら独立していったデザイナーさんなどもいました。
けれども次々マシンガンのように「あれやり、これやり」と繰り出してくる先生のアイデアについて行けず「やっぱり無理ですわ」と去っていく人は多かったそうです。
私もまたそういう一人だと先生は思われたようでした。
気持ちはあっても体が弱く、フルタイムで働きながらではなかなかついて行けない私のことを、丈夫に生まれついた先生は理解できず「やる気がない」と怒って早々に切り捨ててしまわれました。
私の先生のはずじゃなかったの?
なんかヤバい人みたいですけど「この人だ」という信号を感じていた私はダメ元で、どうしても先生から習いたいと手紙に書いて送り、それを受け入れてくださって今に至ります。
それ以来、「上手に話せなければ書けば良い」というのは不器用な私にとってのひとつの杖になり、こうしてブログを書くことにもつながりました。
作風のこと
師匠の宗圓は一見何がしたいのかわからないと言われるほど描く絵の種類が多かったり、仕事の幅が広かったり。
キュレーション次第だと私は思っていますが、画家活動では画風が統一されていないと不利と言われることもあります。
先生はあっけらかんと「コケることがあるからな」と笑います。
人生で何度も転んできた私には、その意味がとてもよくわかります。
最短で絵を売ることを目的とするなら、画風をすぐに絞った方が良いのかもしれません。
でも、それより一生をかけて自分の絵の可能性を伸ばすにはどうしたら良いかを優先して考えたとき、私はまずはとにかく色んなジャンルを飛び越えて絵を描いてみようと思い、これまで色々な絵を描いてきました。
これからも色んな絵を楽しく描いていこうと思っていますが、アトリエ内で研究している独自の下地を使った作品制作に特に力を入れていこうと思っています。
吉祥画のこと
私は師匠の描く吉祥画を引き継ぐ形で同様の絵を描いています。
デザイナーは何人もいたけど絵の弟子は私が最初で最後だからと、先生は自身の吉祥画の下図(粉本)を唯一私に託され、今、私はその粉本をもとにアレンジするなどして吉祥画を描いています。
このことにははじめ、とても抵抗感を感じ悩みました。
それは師匠の宗圓のファンでいてくださっているお客様やこれまでお世話になってきた画廊の方たちに良く思われないのではないか、私が引き継いだところで宗圓の劣化コピーと揶揄されるのではないかと思ったからです。
一世を風靡するような活動はしていませんが、現代において紀伊川宗圓ほど達者な運筆で現代的センスの琳派を表現できる絵を描ける人はいないのではないか。
画廊の仕事でも、仕事以外でも数多くの素晴らしい画家さんたちの絵を見てきましたが、私は本気でそう思っています。
「なんでそんなに難しく考えるのか」と苛立つ先生と「なんでそんなに簡単に考えるのか」と半泣きの私とで何度も話し合いを重ねた末、師弟なのだから堂々と師匠の粉本を使い描いていけば良いとふたりで結論を出しました。
吉祥画に向き合うとき、尊敬する歌舞伎役者さんが「型があるから型破り、型がなければ型無し」と仰っていた言葉を心の支えにして絵を描いています。
吉祥画(縁起物)について、私はとても大事にしている考えがあります。
世の中に不思議なことは沢山ありますし、前向きな気持ちや行いに勢いがつくので縁起を担ぐことも私は好きですが、それは地に足がついていることが前提です。
縁起物というのはめでたく誰かの幸せを祈るものであり、心の支えにもなり得るものですが、地に足を付け現実的な努力をし、縁起物に振り回されないこともまた大切で基本であると考えています。
デザイン画家
絵を描く活動全般においては、絵の先生が元々デザイナーということや、私自身が絵の販売の最前線にいた経験が合わさり、絵はのびのび楽しく描くアートであると同時にインテリアやデザインとの親和性の高いデザイン的で装飾的な美しいものを目指したいと思うようになり、デザイン画家という呼び名を作りました。
好きな画材はポスターカラーと不透明水彩、日本画の絵の具です。
特にポスターカラーについては誤解が多く、優れた画材であることが近年忘れられていた絵の具でもあると思いますので、ヘビーユーザーのひとりとしてアニメの背景画だけではないポスターカラーの良さや面白さを多くの人に知って親しんでもらえることを心から願っています。
生き方について
このブログは絵に関することをメインに書いていますが、生き方についても記事を書いています。
私のこれまでの人生を振り返ると良いこともありましたが、客観的に見ても何かの罰かと思うほど不遇な時期が長かったと思います。
生きていたくないなと思うことも随分とありましたが、人生は途中でやめるわけにいかないと思っていましたので、ただ死なないことだけを頑張っていた時期もありました。
出口の見えない暗いトンネルの中でどうすれば良いのか必死で考え、人の話に耳を傾け前向きに行動しては失敗し、また立ち上がることを何度も繰り返す中で気が付いたこと、わかったことを記事にして書きました。
ひとりひとりみんな違いこの世に同じ条件の人はいませんので、私にとっての正解が他の人にとっての正解でないこともあることは重々承知ですが、ひとつでもふたつでも何かのヒントになればと思っています。
もし心が苦しくなるようなことがあったら、生き方の記事を読んでみてください。
私は人を救うというような大それたことが出来るとは思っていません。
けれども、読んでくださった方が自分で自分を救うためのヒントを詰め込めるだけ詰め込んで記事を書いたつもりですので、読んでいただけたら幸いです。
これからも、絵を描き楽しく生きるために役に立つ記事をたくさん書いていきますので、どうぞよろしくお願いいたします!
これ売ってきて